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    かけはし2021年4月26日号

「夢であり宿題、社会主義」


チャン・ヘギョン社会変革労働党 新執行委員長に聞く@


  2021年には、変革党が抱える課題は、厳重である。実力闘争としての階級闘争の記憶は徐々に薄れていくが、社会主義勢力はなかなか大衆の前に目に見える代案として提示できずにいる。「社会主義の大衆化」方針を明らかにしてから1年が過ぎた今、党自らの評価も楽観することが困難な状況であるが、そんな中でも、党は進まなければならない。1月30日に開催された社会変革労働者党6回総会は、新しい指導部を選出した。甘くはない条件で重い役割を決意するまで、長く社会主義運動を決心し、これまで20年以上の政治組織活動を続けて来た間どのような悩みと曲折があったのか聞いてみようと思った。チャン・ヘギョン変革党新任の執行委員長から話しを聞いた。

最初はかっこよくて始めたが…


高校生の時までずっと「模範生」として生活してきたヘギョンさんは、1984年に大学生活が始まるなかである種の「開放感」を感じていた。全斗煥政権時代に「開放感」だとは形容矛盾かもしれないが、それは厳しかった分、より花を咲かせたキャンパスの抵抗文化のおかげでもあった。

「私は家で末っ子でした。兄弟たちはすでに大学生だったということもあって独裁政権が悪いということくらいは知っていましたよ。そんな感じで大学に入って、近ごろは「トンアリ(仲間)」と言うけれども、かつては『サークル』と呼ばれていたんですよ。入学式の翌日、新入生を対象にサークルオリエンテーションをするが、その中に『タルバン』がありました。路上仮面パフォーマンスをするところだったが、一番前で鉦(かね)打ちする先輩のなびく髪がとてもかっこよかったんです。(笑)入学して1週間も経ないなかサークルのドアをノックしました。先輩たちが毎日お酒を買ってくれて、高校の時までは触れることができなかった文化と雰囲気に出合うようになるので開放感を満喫しましたよ。ところが、当時は学生運動圏のサークルが多く、『タルバン『もその中の代表的なところでした』。

偶然に入った「タルバン」でヘギョンさんは週1?2回行われた学習会に参加した。そうする内に、過去20年間学んだことが「偽」であったことを少しずつ分かるようになった。何よりも学内で1980年の光州民衆抗争写真展が開かれたとき、その凄惨な姿を見て「血が逆流するような怒り」を感じた。そのようにヘギョンさんは、学生運動に足を踏み出した。最初は「反独裁―民主化」のためであった。そうするうちに「資本主義自体が問題だ」という考えをするように悟らせてくれた本に出会った。『資本主義経済の構造と発展』であった。

「当時は、マルクス主義の原典が国内にほとんど入らない状況でした。主に日本で出た本の翻訳版を見ました。『資本主義経済の構造と発展』も日本の人が『資本論』を圧縮して書いた本だったが、それを読みながら大きな衝撃を受けました。『搾取』という概念を知ることになり、『全斗煥政権打倒のレベルではなく、資本主義そのものを根本的に変えなければならない』と感じるようになりました。その時から『社会主義が代案』だと考えるようになったと思います」。

しんどさが増して忍耐の連続

 大学4年生だった1987年、6月の抗争に続き、7月から労働者大闘争が起こった。「いよいよ労働者階級が起ち上がったか」と実感しながら「何とも表現できないしんどさが増すこと」を感じた。ヘギョンさんが住んでいた安養(アニャン)も近くの工場の屋根に労働者たちが上がってプラカードを広げてデモを行う姿を見た。1987年の労働者大闘争は暗い時期に信念を守ることができるようにしてくれた支えでもあった。1980年代には学生運動を終えて、労働現場に入るのが「運動のコース」だったので、自然に労働現場に入っていった。しかし、いくらも経たない1989年から現存する社会主義圏が崩れ落ちた。運動に飛び込んだ多くの人々が信念と志向を失って去った。たちまちヘギョンさん周辺でも多くの人がこの時に運動を後にした。しかし、あきらめずに粘った。

「現存する社会主義圏は崩壊したが、韓国では労働者大闘争以後、民主労組運動が急成長しながら、労働者階級が歴史の前面に立っていたのが見える時でした。資本主義体制が持続する限り、労働者階級の闘争は、常に存在するしかなく、その中で新たな希望を見い出さねばならないという考えでふんばり所でした」。

しかし、「ふんばり」は思っていたように簡単ではなかった。学生運動を終えて労働現場に転戦した後、ヘギョンさんは本格的に政治組織に加入して活動を開始したが、時節がら、公権力の介入(このため、当時の組織指導部の多くが捕らわれていた)と現存する社会主義圏の崩壊など相次ぐ事態が重なり、所属した政治組織が事実上の機能を失い瓦解した。実のところ「全国労連」(全国労働団体連合)という労働運動団体であったが、どの政派やサークルにも属さないまま数年を過ごした。「まるで孤児のような境遇」だと感じた。

厳しい時だった。そんな中、IMF危機直前だった1996年末、金泳三政府と与党(新韓国党、現国民の力)は整理解雇制と派遣労働制の導入などを骨子とした労働法改悪を電撃的に通過させた。これに怒った労働者が、民主労総を中心にゼネストを起こし、これがまさに96―97年労改闘(労働法改悪阻止闘争)ゼネストであった。

「個別的な賃金・団体協約の問題ではなく、単一の要求で民主労組運動が全国ゼネストを組織した巨大であり、各界各層がゼネスト闘争支持隊列に合流したんです。1987年以来、わずか10年ほどで、労働者階級が政治的に前進しながら闘争の先進部隊でもあり、前衛として立ち上がる過程を見せられるようでした。それこそ最も記憶に残る階級闘争でした」。

96〜97年ゼネストを経て「労働者政治勢力化」が運動陣営の第1の課題として浮上した。制度的に際立った流れは、民主労働党の建設だった。しかし、民主労働党の路線に反対し、それとは別の左派結集の流れも形成された。その結果、1999年に「労働者の力」(略称「労力」)が作られた。現実の社会主義圏が崩壊して所属した政治組織が瓦解した後、労働団体の活動を続けながらも、「これだけでは不十分であり、政治組織が新たに作られなければならないのに」という問題意識を抱き続けてきたヘギョンさんには感激の瞬間だった。

「労働者の力創立総会の時に涙を流しました。前にも言いましたが、政治的な孤児状態で数年を過ごし、ようやく議会主義勢力ではなく、変革的政治運動を旗印にした組織が生まれたのですよ。新たに政治運動をすることができるという期待と抱負でいっぱいになりました」。  (つづく)

 


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